動物愛護?
乾季の季節風『アミハン(東風)』が吹くと、ウチの海はこのように少し波立ち、ビーチは濁ります。
さて、この稿はペットの話です。
昨夕(といっても10数年前の”昨夕”ですが)、日本のTVのニュースで見て驚き、書く気になりました。
[日本中では、年間37万頭(匹)の捨て犬や捨て猫が保護(?)されている。]
[うち34万頭が、薬殺処分されている。]
メディアの報道とは、一部分に焦点を合わせ、その部分を思いっきり拡大してさらにお飾りして・・・みたいなところがあります。
私は、報道を鵜呑みにはしないタチですが、それにしても事実だとすると凄い数ですね。
正月の松飾りではあるまいし、毎年犬を買い換える家庭は無いでしょう。
だから、見方によっては買われた犬猫はかなりの確率で捨てられ、“処分”という名で殺されているという事になるのでしょう。
しかもその多くは、雑種でない血統書付き犬(猫)でしょう。
『人気犬(猫)』という流行?の犬(猫)も、やがては飽きられ捨てられることも多いとか。
私のようなゲスな者は・・・・
一頭5万円から50万円、平均10万円としたとしても、10万円×34万頭=340億円。
一般人の目の届かぬところで、毎年340億円相当の犬猫が天寿を全うすることなくあの世に送られている?
と不謹慎にも、お金に換算したりしてしまいます。
それはともかく、これは、犬猫に対する“公認アウシュビッツ”ではないでしょうか?
かたや、売られるいじょう『犬猫を生産する』業者と、『販売する』お店があるわけですよね。
その方々は、自分が『生産した』犬猫や『売った』犬猫が飼い主の手で捨てられ、お上の手で殺されていることに、何も憤(いきどお)りはないのでしょうか?
むしろそのように『消費される』ほうが、次々と需要が出てきて儲かる、と心の片隅で思っているのでしょうか?
酷な言い方ですが、34万頭の犬猫を『保護』し処分する為には、税金もそうとう使われるでしょう。
私は偉そうな事をいえる人間ではないのですが、この件に関しては日本、イカレテます。
万(よろず)命あるものを慈しみ、生命なき物まで、あたかも命ある如く扱い大切にした、あの日本民族は何処へ行ったのでしょうか?
うちのポリス。
彼は体が小さく、毛も柔らかく皮も薄く、骨も細いです。
雑種ですが、どうやら座敷犬(小型犬)の血が濃いようです。
イジめられっ子です。
番犬にするのはムリ・・・か。
さて、フィリピンの田舎では犬を多く見かけます。
日本人の方は、こちらの犬達は首輪も無いし、放し飼いなので、ノラ犬かと思う方が多いのですが、ほとんどは飼い主がいて、たまにエサも貰えます。
しかし通常、犬は自分の判断で行動し、身を守り、エサを手に入れ、『犬社会』で折り合いをつけています。
車に轢かれる犬もいれば、悪い病気に罹って痩せ衰え、ヨロヨロと歩き死にゆく犬もいます。
一方で、過食で丸々と太った犬はいません。
日本でも言われ始めて久しい、“自己責任”という言葉があります。
世界の国々では、”何事も自己責任で”という国や地域のほうが、多いように私は感じます。
そしてここの犬達も、自己責任で活きています。
飼い主に首輪と鎖で繋がれてしまうことは、普通はありません。
(ごく一部の金持ちの番犬は別ですが)
その代わりというか、痒いところに手が届くように可愛がられ、上げ膳据え膳で、というのもありません。
なんか、考えさせられますね。
最近は日本でも、『ペットショップ』の狭いケージで、犬猫を商品の様に陳列し売ることの可否が問題になっています。
『鮮度』の落ちた売れ残りは処分され、次の『商品』と入れ替える・・・
そんなビジネスは、欧米の一部ではすでに法律で禁止されています。
希望者は、直接ブリーダーを訪れ買うというシステムです。
まぁ人類は、少なくとも現在、地球上の生物の盟主ですが、犬猫に限らず、生命を弄(もてあそ)ぶべきではないと、個人的にも思います。