熱帯の地の恵み
敷地内の海に面した場所に、いつの間にか、また新しい木が生えてきた。
名前は聞いたが忘れた。
本当に『アレヨ』という間に成長し、いまや高さ2メートルオーバー。
そして。
シリの木が隣に生えている。
これも勝手に生えてきた、4本も。
『シリ』というのは、唐辛子の一種(島唐辛子?)である。
日本のいわゆる鷹の爪よりずっと小型だが、いかにも熱帯的な辛さだ。
エスニック料理や中華風料理には良く合うが、日本の麺類には辛さが強すぎて合わないと私は思う。
まとまって生えているので、誰かが残したシリを捨てて、芽が出たのだろう。
緑と赤の実が見える。
緑の実がやがて赤く色づく、緑も赤も辛さは強烈。
この実の元はこんな可憐な花だ。
ウチの敷地内には、食材用のシリの木は他にもあるが、一年中何回も、花が咲き実がなる。
辛い料理が大好きなファミリーでも、1本のシリの木があれば普通充分だ。
だから冒頭のシリの若木は、スタッフにあげるか処分するしかない。
ウチの敷地には、そのほかにもココ椰子はもちろん、野生のミニトマト、グアバ、パパイヤ、バナナなど私が知っているだけでも、かなり食物を提供してくれる植物が生えている。
グアバの木。
パパイヤの木。
ミニトマト。
これらが、地の恵みを無言で与えてくれる。
ここからが本題。
私は、『リゾートを創る』などという手前勝手な名目で、先住のこれらの植物や、それに付随する動物達の生態を脅かしているわけだ。
上記の木々も、予定ではほとんど伐採することになる。
脅かしているどころか、抹殺しようとしている。
我々が来る前までは、この土地は木が雑然と生え草ボウボウの『遊休地』だった。
しかし、『遊休地』というのは、こちらがそう表現しているだけである。
これら先住の生命達にとっては、自然の摂理に適ったエデンの園であったに違いない。
彼らにとっては、ジャマだと言って木が切り倒され、蚊が出るからと草が引き抜かれ、セメントの家が建ち人が住む、今の状態こそが不毛の『荒地』そのものなのだろう。
私が工事完了後に、整地して庭を作り、きれいな花の咲く草花や木を植えたり、芝を張ってガーデニングしたとしても、その事自体は変わらないだろう。
巷でよく言われるように、私も『自然を残したい』と思っている。
しかし大多数の他の人同様、私もまずは自分の都合が優先してしまうのである。
したがって、木を切り倒すときはいつも、心の中で手を合わせ本心から詫びている。
そうしたからと言って、私の罪に変わりはないのだが。
東京やニューヨークのビル群、整備された公園、はたまた圧倒的に煌めく大都市の夜景。
我々は時として、そういった人工的なものにある種の『美』を認めてしまう。
魅力を感じてしまう。
利便性に大いなる価値を認めてしまう。
目を転じて、宇宙から丸い地球を眺めたとしよう。
緑の山々や紺碧の大洋は美しいに違いない。
ニューヨークの摩天楼や、世界の大都市の街並みはどうだろうか。
自然の美しさに比べれば、廃墟としか見えないのではないだろうか。
それはあたかもダイバーが水中世界でよく目にする景色。
例えば、息を呑むような枝サンゴの群生が、やがてボロボロに破壊されてガレ場になってしまったように、恥ずかしくても隠しようがない現実、恥部だ。
自然破壊に限らず、戦争、飢饉、犯罪・・・。
誰もが望んでいないことが、実際には、世界中あちこちで起きているのが現実だ。
人々はたぶん、様々なやるせなさに脆い蓋を被せるように、休日に海山に赴き、自然のうわっ面を愛(め)で、讃歌し、とりあえず自己満足する。
だが都会を離れて、土の上に立って暮らしたいと切望する人は少ないし、それを実行する人はさらに少ない。
自然に接して暮らすことの手ごわさ、辛さを皆さん本能的にご存知だからでしょう。
6千年前の縄文人ならともかく、現代人にとっては、自然と共存共栄することなど、至難の業なのだ。
かく申し上げる私、フウテンオヤジはこれからも椰子の木を切り倒し、シリの木を引っこ抜き、大地をセメントで覆っていく。
シリの辛さよりキツかもしれない、忸怩(じくじ)たる思いとともに。
いにしえよりの森の木をバッタバッタとなぎ倒し、農薬漬けの芝を育てて作ったゴルフ場なんて・・・ゴルフなんて、私はできそうもありません。
木々の霊が、芝の上に林立しているんでしょうか?
・・・とかエラそうに言っても、やはり勝手ですよ。
何故なら、私は日本に居た頃、冬場はスキーにシーズン30日ほど行っていました。
考えてみれば、スキー場もゲレンデ作りに相当木を切るんでしょうね。
ゴルフ場がダメで、スキー場が良いという法はないですね。
本来は人間って皆、自分勝手なんですね。
”環境保護”なんかも、“全ての人が自分勝手”と言う事を前提として方向を探ると・・・つまり何のための環境保護なのかと・・・・良い知恵が出るかも知れませんね。