ビーチボーイ&ビーチガールのクロニクル

南国ビーチで、ゼロからリゾートを建設し、営業し暮らした記録です

一件落着! マホガニー案件


M(ウチの奥様)が現場に2時半着。


現場スタッフに、現場から物を持ち出すときは、許可を得るようにと伝える。


鉄筋や木材の欠け端を勝手に持ち帰るケースをたまに見るので、クギをさす。


鉄筋棒の切れ端は、小さく切って釣りのオモリに使うとか・・・様々事情は承知しているが、やはりナアナアにすると、助長して良くない。



この土地を買った直後、敷地内のヤシの木を誰かに何本も伐採されたり、古家の調度をごっそり盗られたりという事があった。


火事場泥棒やハゲタカの類いである。


こういう明らかに悪いことには、我々外国人も毅然とした態度で「NO!」と言わないといけない。


不快の意を表明しないといけないと思う。




先週、隣の土地のスクワッター(=不法占拠者)のオヤジ――伊東四郎(とそっくりな顔)――とマホガニーの木の話をしたが、とうとう決着をみた。



「俺が植えたから、俺んだ!」と言う、独特の論理を展開するご仁である。


ここフィリピンでも、木や植物、土、石などはその土地の付属物(土地所有者の物)とみなされる、という法律があり、たとえ田舎でも大人は知っていることなのだ。


実はその後も、伊東四郎オヤジはMや管理人の顔を見るたびに、木のことをウダウダと言ってきていた。


私自身は、常識や法律を楯に、相手をしなかったのだが、あまりしつこいとハラが立ってくる。




この頃は、「木を買い取らないと、切るぞ!」とほざいているらしい。


ここで本性が見えた。


要は金が欲しいのだ。


オヤジは木を切る気はない。


つまり木を切るには、ふつうチェーンソーを使う。


チェーンソーを借り、木を切って製材するには、最低でも200ペソは払わないといけない。
そうやって木を切っても、彼の家では使い道はないし、田舎では買い手はなかなか見つからない。


伊東四郎が、そんな金をあのマホガニーにかけるはずはない。


オヤジの狙いは木でなく、カネなのだ。



現場に行ったときに私は決めた、木をオヤジにくれてやると。


私はルイーラ(管理人のオバチャン)を呼んで、次のように親父に伝えるよう言った。



「ほとんどの国の法律では、ここフィリピンの法律でも、木は我々のものである。」


「しかしオマエには、何故か法律は通用しないらしい。」


「その上オカシイのは、オマエは『俺の木だから、切っていいか?』と最初の日に聞いてきたが、ホントにお前が自分の木だと思っているのなら、なぜ私の許可を求めた?」


「本当はオマエも木はお前の所有物ではない、と知っているのだろう。」


「買い取れだと! もしそんな木を買って柱にでも使ったら、今度はオマエはこの家は俺のだ、と言うかもしれないな。」


「もう木はオマエにあげるから、もって行け。」


「その代わり、根っこの一本もこの土地に残さないでくれ、オマエの物を置いていかないでくれ。」


「その根っこから小枝が生えてきたら、オマエの物だから私は始末に困るから。」



この国では、こういう話はあいだに人を入れることが多い。


意図的に証人を作るためと、直接話して互いに感情的になるのを避けるためだ。




この話はしっかりとオヤジに伝わったようで、その後チェーンソーを借りるお金のないオヤジは、しかたなく自分でボロ(山刀)とノコギリで2日がかりで木を切ったらしい。


疲れたのか、ルイーラに根はいらないから燃やしてくれ、と頼んだようだ。


しかしその切られたマホガニーの丸太も、半分(細くて使えない上の方)は写真のように我々の敷地に放ってあるだけなのだ。





その内には腐り、シロアリが入りボロボロになるだろう。


この木で金儲けしようとしたオヤジの企みは潰えた。



一件落着。


あ~ぁ、本当にこういうヤカラの相手は疲れる、フィリピンだから仕方ないのは重々承知だが。

キミたちほんとにマジメ君?



(午後2時―現場着) 
現場入りして、またチェックチェック。
そういえば、水溜め用のドラム缶とホースを買ったはずなのに、この前から全然見ていないような気がする。
さては売り飛ばされたかと、管理人のおばちゃんにその旨告げると
「セメントこねる時だけ使ってるので、それ以外のときは、ボロ屋にしまってる」と言う。
えっ、いちいち、そんなにこまかい職人がこの国にいるのか?


ボロ屋を覗くと、本当にホースとドラムカンがきちんとしまってあった。
それからいつも思うのだが、このチームは監視してなくてもサボっていないようだ。
私はバスで現場に行くので、私が到着したときに皆セッセと働いているのは、バスが止まった音を聞きつけて、動き出すんだろうと思っていた。


しかしこの頃は工事が進み、作業場は海のほう、道路から遠くなっている。バスの音は聞こえないし、そこから道路は見えない。
それなのに、あぁそれなのに! 
バスを降りて近づくと、あれ不思議、いつもちゃんと動いているのである。
周りの誰かから特殊なサインが伝わっている感じもない。
誰の耳にも無線機?も付いていない。
私の体に、いつの間にか発信機のチップを埋め込んだのだろうか?
「なぜ?」と本人達に聞くわけにもいかない。
これではヘタな日本人より、よっぽど勤勉なのである。



この国にいると、一般的に、日本人はどうしてもだんだん疑い深くなる。
私だけではない。
この国に於けるさまざまな経験や体験により、そうなってしまうのである。
これは日本に住んでいる日本人には理解しがたい事であろうが、そうしないとこの国に住めない、生きていけない、というのも事実である。


私などは長年フィリピン人と働いているので、それが体に染み付いて、時に日本人からは=奥様M=から、しつこいほど疑り深くて、嫌われてしまうことがあるくらいだ。


人を、[信用すること] と [疑うこと] 、生き残るために、何処の国にいても、このバランス感覚がとても大事なようだ。